JR三田駅から一番近い、神戸市北区の霊園、バラの花咲く公園墓地。西宮・宝塚・尼崎・伊丹から便利。

近代日本の化学の祖(川本幸民)

    川本幸民顕彰碑三田小学校の正門横の城跡に、「川本幸民顕彰碑」が建っています。この人物もまた江戸時代のおわり頃、三田藩から出た英才で、「近代日本の化学の祖」と地元は称えています。
 三田藩につかえる医者の子として生まれた幸民(1810~1871年)は、19歳のときに藩主の九鬼隆国に才能を認められ、江戸で有名な蘭学者・坪井信道の門下生となり、蘭学・医学・化学・物理学などを学びます。そこで緒方洪庵や福沢諭吉と出会い、終生の友情をむすんでいます。
 嘉永六年(1853年)、提督ペリー率いる黒船四隻が浦賀に来航します。その偉容に幕府をはじめ日本国中が蜂の巣を突くような大騒ぎになりました。
 その頃、江戸の薩摩藩士向けに西洋の先端技術を講義していた幸民は、講義録をまとめた著書『遠西奇器述』を急いで刊行しました(1854年)。蒸気船の構造、写真術、電信などについて詳細に記述したものです。諸藩は、西洋の科学技術を理解するのに最適というので、国防の参考にと争って求めたため、大ベストセラーとなったということです。
 実は、この刊行の十年前から、英明で天下に知られた薩摩藩主の島津斉彬は、西洋の軍備や兵器、電信機、写真機、製塩法などに関する文献の翻訳を、幸民に依頼していたようです。
 薩摩藩が、外輪式の蒸気船「雲行丸」を完成させたのは、ペリー再来の翌年(1855年)のことです。蒸気船を遠くに見ただけで自力製造してしまった日本の底力に、列強が驚嘆したのも当然でしょう。そして他のアジア国と違うことを痛感した列強は、植民地化を諦めて通商の開国を迫ったのです。その意味でも、薩摩藩に蒸気船をつくらせた幸民の『遠西奇器述』は、救国の一書だったと歴史的に評価されています。
 何事も実践を重んじた幸民は、ただ文献を翻訳するだけでなく、写真撮影やマッチの製造、ビールの醸造なども日本で初めて挑戦した人物で、「化学」という訳語を初めて使ったのも幸民と言われています。

    川本幸民 顕彰碑維新後、

ふるさと三田にもどった幸民は、屋敷町の金心寺(こんしんじ)に長男の清一とともに英蘭塾を開き 『水軍、陸にのぼった』時から約200年を経て、特殊な技術集団であった三田九鬼氏の家臣から、こういう人物が生まれたということに伝統や
歴史のおもしろさを感じます。

参考/『三田市史』、『三田歴史スポット100選』など