JR三田駅から一番近い、神戸市北区の霊園、バラの花咲く公園墓地。西宮・宝塚・尼崎・伊丹から便利。

九鬼水軍(くきすいぐん)、陸にのぼる


三田城城主の九鬼家といえば、「水軍、陸にのぼる」という歴史ストーリーがよく知られています。伊勢志摩で勢力を伸ばす水軍の将として知られた九鬼嘉隆(よしたか)は、天正2年の伊勢長島一向一揆の鎮圧で信長方水軍として活躍します。そして天正6年には、信長の本能寺攻めのさい、大阪湾で毛利水軍と激突した九鬼水軍が圧勝し、その名を天下に轟かしました。信長から新知7000石を与えられた嘉隆は、3万5千石の鳥羽城主として秀吉のもとでも大いに活躍します。

日本の鉄道を築き上げた、九鬼隆範人災育成に尽力した、九鬼隆義

 ところが関ヶ原の戦いでは、息子の守隆は東軍につき、嘉隆は石田三成の西軍に組みしたため親子が敵味方に分かれて戦うことになります。やがて西軍の敗北を知った嘉隆は鳥羽城を出るや、守隆が家康に助命嘆願の許しを得る前に、すでに自害してしまっていました。
 九鬼水軍は、造船技術をはじめ風や潮流などを読みながら軍船をあやつることができることから、慶長19年の大阪冬の陣では御船奉行を任ぜられています。翌年夏の陣でも九鬼水軍は戦功をあげ、守隆晩年の知行高は5万6000石となっていました。徳川時代になってからも、江戸城普請に必要な木材や石材の輸送に欠かせない技能集団でありました。しかしやがて、守隆の息子たちとその重臣による跡目争の御家騒動が勃発したために、幕府の裁定により喧嘩両成敗となります。系図があまりに複雑なので詳細は省きますが、久隆は3万6000石の摂津国三田へ、隆季は2万石の丹波国綾部へと所替えとなってしまいます。戦国期には九鬼水軍としてその名を轟かせた九鬼家は二分され、「水軍、陸にのぼる」事態になったというわけです。徳川幕府にとって御家騒動は、絶大な幕府権力を見せつけるためにもよい口実でした。御家騒動によって御家断絶という大名もいましたから、九鬼家は二分されたとはいえ、両成敗の形でおさまったのは幸運だったと言えるかもしれません。