国道176号線に「道場東」の信号があり、そこから西側に入ると国道とほぼ平行して旧街道があります。小さな愛宕神社から日下部(くさかべ)西の信号機まで三百数十メートルあり、そこがかつて宿駅(しゅくえき)として栄えた道場河原村です。光明寺墓地公園からは車で7、8分という距離です。
道場河原村は、有馬川と有野川の合流地点にある交通の要所として、古い時代から周辺の産物が集まる市が立っていました。イラスト図(北摂・西摂の宿駅配置図『宝塚市史
第2巻』より)に見るように、北は丹波・但馬から大阪、京都、西宮、三木、姫路などへ抜ける宿駅だったのです。

元禄9年(1696年)、五代将軍綱吉の時代に、道場河原村は幕府から正式に宿駅の指定を受けています。宿駅になると飛脚(通信業務)や輸送、休泊などの役割があるので、一定数の人足と馬を用意しておく必要があります。寛保2年(1742年)には、人足25人、駅馬25頭を置くことを認められています。
いまで言えば、人を運ぶ輸送機関と通信基地(郵便局・宅配)と物流センター、そして宿泊処もある通信・流通拠点です。こうした業務を遂行するためには、馬蹄や鞍などを修理する作業所も必要になり、宿場町として人が集まってくるところには自ずと店舗ができていきます。
道幅4メートル、三百数十メートルの街道筋には、鍛冶屋・塩屋・かご屋・樽屋・鍬屋・鎌屋・魚屋・麹屋・味噌屋・数珠屋・綿屋・仕立屋・酒屋・茶屋宿屋など、百軒あまりが軒を連ねていました。なかでも「酒屋や宿屋が多い」と当時の旅行記に残されています。
現在、この旧街道に当時の面影はまったくと言ってよいほど残っていませんが、二階を低い構造にした町家が数軒見られます。参勤交代のときに下を通る殿様や武士を見下ろすのは無礼にあたるというので、本二階の町家はご法度だったことから、こうした二階建てが造られたと言われています。
道筋は一本の直線ではなく、数カ所で大きく曲がっています。そこは城郭に見るような「桝形」で、外敵侵入にそなえてわざと敵に見えにくい死角をつくっていたわけです。この漆喰塗の二階壁に当時の面影が残るばかりで、今となっては不自然に曲がった「桝形」の道筋が宿駅の歴史をかすかに伝えています。

当時の面影を残す漆喰塗の二階壁

不自然に曲がった『桝形』の道
幕府や藩公用の運送などについては無料または低賃金に抑えられ、その見返りとして、宿駅には地税の免除や補助金の給付がありました。むろん公用以外の一般旅行者が利用するときは定められた駄賃(運び賃)を得ることができましたが、今から見ればずいぶん低賃金です。
正徳元年(1711年)、幕府は宿駅ごとの駄賃を決めた「駄賃定札」という高札を町の辻に掲げるように全国一斉に命じています。
「道場河原より之駄賃並に人足駄賃」によると、次のような駄賃です。
行き先 | 荷物駄賃 | 乗掛荷人共 | から尻馬壱疋 | 人足壱人 |
小浜まで | 254文 | 同じ | 166文 | 115文 |
有馬まで | 84文 | 同じ | 53文 | 43文 |
生瀬まで | 214文 | 同じ | 139文 | 105文 |
「荷物駄賃」というのは、馬の背に米俵のように重い荷物を載せて人足が運ぶものです。「乗掛荷人共」は、人と荷物を載せて運びますから割安のようですが、重量が基準のようです。大きな荷物がない場合、「から尻馬壱疋」というのもあり、乗掛荷人共に比べて3割以上安い駄賃になっています。イラスト図(「西宮市郷土資料館図録)より。

ところで当時の「1文」というのは、今の貨幣価値としてはどれくらいだったのでしょうか? 時代が上るにつれ1文の価値が下がっていますが、この高札が掲げられた江戸中期(正徳)の頃だと、いまの20円程度と考えられます。
だとすると、道場河原から有馬まで、荷物駄賃(乗掛荷人共)は1,680円、から尻馬壱疋では1,060円、人足壱人では860円、ということになります。
道場から有馬までは一直線でむすんでも5㎞はありますから、当時のことなら人足の残業はないとして3往復するのがせいぜいでしょう。とすると、人足壱人の1日の稼ぎは5,160円(860円×6)。鉄道や宅配が発達した現在と比較できませんが、当時の物価や賃金と比べてみると妥当な料金体系だったのでしょう。

ちなみに、野菜売の稼ぎは1日3,500円ほどで、大工の日当は7,000円ほどです。そば・うどん一杯の値段は200~300円、床屋(髪結・散髪代)は600円、宿泊代(1泊2食付き)が4,500円ほどです。
江戸時代も日常の食品はそこそこ安いのですが、米が1升(1.5kg)2000円とは驚きです(しかし今の農家さんにとっては、米の値が安すぎるのですが・・・)。
幕末の頃はどこの藩も財政がひっ迫し、武士が豪商に頭を下げて借金するという有様が時代小説やテレビドラマにもよく出てきます。慶安元年(1648年)から飯野藩(藩主は保科氏)の飛地の領地となっていた道場河原村においても例外ではなく、手形がわりに藩札を発行して通貨不足を補ったりしています。また商人たちは自衛策として、商人間の信用に基づき手形の一種の私札を発行したりしてもしています。
こうしたなかで貨幣価値はしだいに下がっていったので、もともと低い公定賃金ではたらいてきた人足すなわち運送業者の生活はますます苦しくなっていきました。舟による輸送が発達したこともあり、不作・凶作が重なると街道を通る人馬や商荷がとたんに減少して、元気な馬借たちは出稼ぎにいくしかありませんでした。残されたのは老いて足腰の弱った人足ばかり、駅馬も少なくなり農耕牛まで代用せざるをえない状況になっていきました。
人や荷物の往来が少なくなれば、街道の商店も困ります。そこで地域起こしのイベントを打とう、と町衆たちが相談したのでしょう。
当時、申請しても許可が降りなかった「春秋見世物興行」を願い出て、五カ年限りという条件で認可されました。文化4年(1807年)のときは、小浜、伊丹の宿駅と協同でおこない、約半世紀後の嘉永5(1852年)にも小浜との協同で興行をおこなっています。どんな興行をやったのか、その詳細はわかりませんが、おそらく田舎歌舞伎や能狂言などがあったのでしょう。町起こしや地域活性化のためにイベントを企画するのは昔も今も変わりません。しかし当時は藩の許可がなければ自由に興行できなかっただけに、町衆の団結や意気ごみは相当なものだったと思われます。
源氏軍は、輪田(神戸)に集結した平家陣めざして京都を進発。大手範頼軍は西国街道を生田の森へ、搦手義経軍は丹波路から一ノ谷をめざした。そして有名な義経の「坂落とし」で源氏軍の大勝利となった・・・。今からおよそ830年前、寿永3年(1184年)2月7日早朝のことでありました。
義経軍の鵯越ルートは京から篠山、小野、三木を通り、一方の範頼軍は西国街道から西宮に出て生田の森へ向かっています。二手にわかれた源氏軍は、この道場町をはさんで北と南から神戸へと攻め込んだのでした。
600年以上の時は流れ、嘉永6年(1852年)、ペリーの来航で日本国中が大騒ぎ。それから12年後、慶応4年(1868年)の大政奉還までの間、寂れつつあった道場河原の宿駅にも時代変革の荒波が押し寄せてきます。

法性寺
法性寺に残る元治元年(1864年)の「高札」には、こんな文言が書かれていました。
「且つ潜伏藩人等見当候者ニ早速二申出候ハハ御褒美被下へき候。若し隠置き他より顕れ候ハハ朝敵同罪たるへき事」
この年7月、尊攘派の長州軍は、幕府軍と蛤御門で戦って敗れています。敗走した長州兵が、西国街道や淀川の水路を使って西宮の海岸に落ちのび、あるいは丹波街道から道場村をへて兵庫港から西下する者もいるから、見つけ次第報告せよ。報告した者には褒美うをやるが、隠したことがわかれば朝敵として断罪する、というわけです。この頃は、庶民のあいだにも幕府への批判・不満が増していました。関西では「世直し」の長州びいきが多かったので、落ち武者たちをかくまう庶民もいたということを、この高札が物語っています。
やがて、溜まりたまった庶民のエネルギーは「稲荷踊り」となって爆発します。

道場から三田駅方面を望む
長々々長州まけなよ 長州が勝たら百目に三石 天下が勝ちたら土くへ土くへ
こんな言葉を囃しながら、派手な衣装を着て鉦(かね)・太鼓・三味線などを鳴らし、女も男姿になって踊りながら街道を練り歩いたのです。
播州三木稲荷神社の祭礼行事から始まったと言われるこの踊りは、この有馬郡にも飛び火して、多紀郡(丹波や篠山)、淡路の三原郡にも波及していきました。
「摂州道場村 くさかべ(日下部)村などより小名田村 生野村等へも移り専ら踊り歩行候よし」

15号線 有馬へ
と当時の旧家の文書に残されています。やがて各地で米蔵を襲う米騒動の頻発、稲荷踊りに似た「ええじゃないか」踊りなどが沸き起こっていきます。薩長同盟や志士たちによる明治維新は、こうした庶民のエネルギーにも後押しされて実現したのでしょう。
国道176号線にそんな歴史を偲ぶものは見当たりませんが、15号線の道場や日下部の信号前に立つと、ここが東西南北の人と物流の往来の拠点であったことを実感します。